シリーズ  知多四国八十八ヵ所霊場 戻る
庶民信仰の素朴な温もり
〜全行程およそ194キロで満願成就〜
世の中は今、健康ブーム。尾張北部地方から日帰りが可能な「知多四国霊場巡り」では観光を楽しみながら、弘法大師信仰で心の和みを得ようとする徒歩巡礼者が絶えません。知多半島は三方を海に囲まれ、ゆるやかな起伏の丘陵が広がる温暖な気候です。地形は細長いが四国に似ており、350以上の寺院がある信仰心の厚い土地柄でもあります。弘法大師は弘仁5(814)年、三河から海路で南知多町大井の聖崎へ上陸し、医王寺・岩屋寺で護摩修法を行ったと伝えられています。それから1000年近い後の文化6(1809)年、妙楽寺の住職、亮山上人の夢枕に立った弘法大師が知多霊場を開くことを告げたのが、知多四国霊場の始まりです。平成20年には開創の発願をされてから200年を迎えました。知多四国の札所巡りは知多半島の東側に沿って南に向かい、半島先端の師崎から日間賀島・篠島へ渡り、再び半島の西側を北に上って大府市で満願成就となります。この間に札所は一番から八十八番までのお寺と開山所3カ寺、番外7カ寺を合わせて全98カ寺。全行程はおよそ194km。知多半島ではこの道を「弘法道」と呼び慕い、ここを通る巡礼者を「弘法さん」と呼んで敬ってきました。庶民信仰の素朴な温もりを今なお大切にしている知多四国霊場へ出掛けませんか。今回から始まるシリーズでは、知多四国の札所寺院を順番に紹介していきます。 

第七十九番 妙楽寺にある亮山上人の座像
●開創は犬山生まれの亮山上人
知多四国霊場を開創した亮山上人は、江戸時代中期の安永元(1772)年に犬山城下で生まれました。少年のころより仏門に入り、名古屋東照宮の守護寺である天王坊第26世亮厳法印に師事し、35歳の時に妙楽寺(第79番札所)=知多市=の住職になりました。その3年後、文化6(1809)年3月17日、亮山上人の夢に弘法大師が現れ「この地に八十八カ所の霊場を開け」と命じました。夢のお告げを受けた亮山上人は翌日、本四国霊場に出発し、徒歩で3回巡るうちに、岡戸半蔵、武田安兵衛という2人の行者の同志を得て、全札所に弘法大師像を納め、八十八カ寺の札所を制定しました。亮山52歳のときでした。その後も妙楽寺に住み続け、68歳で近くの福生寺(第78番札所)に隠居し、76歳で生涯を終えました。妙楽寺境内には亮山上人の座像と弘法大師の立像が立てられています。
(知多四国八十八ヵ所霊場)

 290728 (その11)   ◆第七十八番 〜 第八十三番  
 280729 (その10)   ◆第七十二番 〜 第七十七番  
270731 (その9)   ◆第六十六番 〜 第七十一番 
260725 (その8)   ◆番外・第五十八番 〜 第六十五番 
250727 (その7)   ◆第四十八番 〜 第五十七番 
250112 (その6)   ◆番外・第四十番 〜 第四十七番
240714 (その5)   ◆第三十番 〜 第三十九番 ・ 番外 
240114 (その4)   ◆第二十四番 〜 第二十九番 ・ 番外
230709 (その3)  ◆第十五番 〜 第二十三番 ・ 第五十四番 
230115 (その2)  ◆第三番 〜 第十四番 
220710 (その1)  ◆第一番 〜 第二番