●光明山 浄誓寺(じょうせんじ) 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来
犬山市犬山東古券256 TEL<0568>61-0249 |
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延徳元(1489)年創立。開基・心光坊乗阿は本願寺蓮如上人の弟子になり明応5(1496)年、濃州池田村に一宇を建立し、心光坊と号した。その時、上人より絵像阿弥陀如来を授与されて安置する。天文元(1532)年犬山に草庵を移し、元和元(1615)年には木佛の阿弥陀如来を迎え浄誓寺と改め、現在に至っている。「阿弥陀如来は『たすけたまえと申す人を必ず救う』という誓い(本願)をわたしたちにかけてくださっている仏様で、いつもわたしどもに御心をかけてくださっています」。 |
この願いのもと、隣接して幼児教育の場として、光明幼稚園が昭和25年に設置され、現在も子どもたちが通っている。 |
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●妙國山 興禅寺(こうぜんじ) 臨済宗妙心寺派 本尊 釈迦如来
犬山市羽黒城屋敷16 TEL<0568>67-0032
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承安4(1174)年に梶原景時によって真言宗・光善寺として創建。文明11(1479)年に臨済宗妙心寺派興禅寺と改め、現在に至る。天正12(1584)年、小牧長久手の戦いですべての伽藍を焼失したが慶長7(1702)年、18代犬山城主・小笠原和泉守吉次公によって、現在地に3000坪の寺地を与えられ移転、再興された。現在の庫裡は文政13(1830)年に再建されたもので、木造切妻造桟瓦葺の国登録有形文化財。 |
土間中央の屋根には「煙出し櫓」が設けられ、現在も一部、天井が張られていないため、太い梁が幾重にも組まれた天井裏を見上げることができる。建立以来、幾度かの改修を経ているが、主要部材は取り換えが少なく、代表的な禅宗寺院の外観をよく残す貴重な文化遺産である。 |
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●解脱山 専修院(せんじゅいん) 浄土宗西山禅林寺派 本尊 阿弥陀如来
扶桑町柏森乙西屋敷62 TEL<0587>93-2561
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後宇多天皇の弘安3(1280)年、定照東安大和尚により建立された。 元真言宗の寺で大導寺といい、現在の柏森駅の南西にあり境内の広さは4丁歩。専修院、薬師寺、大仙院、戸白院の塔頭4カ寺があり七堂伽藍を具備した大寺院であったが、兵火にかかり客殿一棟を残すのみとなり、その後客殿を柏森の中心であった現在の地に本堂として遷し、解脱山専修院とした。美しいかや葺きの本堂は明治に、内務省より特別保護建造物として金一封を賜ったが、年月には勝てず、大改築をし開山堂となった。 |
現在の本堂は昭和15年皇紀2600年を記念して、総檀方の力を集結して建立したものである。東門は明治9(1876)年に移築された犬山城門で、同町の文化財に指定されている。 |
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●大香山 桂林寺(けいりんじ) 曹洞宗 本尊 聖観世音菩薩
大口町堀尾跡2-16 TEL<0587>95-1818 |
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文明16(1484)年福井県武生市の宝円寺3世住職桂林祖香和尚が開山した。本尊に聖観世音菩薩を奉安し当初は長楽寺と称したが、永禄12(1569)年、兵火のため諸堂を焼失し、正保(1624〜43)年間に宝円寺15世住職龍嶽元徐和尚が、後の松江城主堀尾茂助吉晴公の出生地である現在地の堀尾屋敷跡へ移築再建して大香山桂林寺と改称した。大本堂は二層仏殿建築様式、本堂の脇には天正18(1590)年に北条氏の小田原攻めに参加し18歳で陣中で病死した息子、堀尾金助の33回忌の追善供養のため、東海道道筋の精進川に掛かる裁断橋の掛け替えをした母の供養塔がある。 |
平成15年11月に3年にわたる諸堂大改修境内整備工事が完了した。尾張三十三観音巡礼・第19番札所でもある。 |
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●慈雲山 大善寺(だいぜんじ) 臨済宗妙心寺派 本尊 聖観世音菩薩
江南市草井町宮西216 TEL<0587>59-8646 |
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当山は、元は岐阜県関市奥迫間にあり、第5代天台宗座主・智証大師(円珍814〜891)作と伝えられる聖観世音菩薩を本尊に祭る、天台宗の観音霊場であった。寛文13(1673)年には迫間郷の郷士大島孫兵衛が開基となり、鵜沼の大安寺から壁立千仭和尚を迎え臨済宗妙心寺派として開山するも栄枯盛衰の曲折をたどり、244年の長きにわたり堂宇だけが存する状態であった。大正6(1917)年草井区民の総意により、現在地に伽藍を整備し迫間から移転。 |
草井地区にあった「草の井地蔵」を本尊に祭る地蔵寺(浄土宗)を合併し、大安寺の北折慧三和尚を招聘、中興開山となられた。昭和23(1948)年には本尊の観音像を新彫し、観音霊場として再出発した。 |
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●高雲山 報光寺(ほうこうじ) 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来
江南市古知野町本郷114 TEL<0587>56-4518 |
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平安時代の仁寿2(852)年、天台宗の第3世慈覚大師により天台宗鷲林山薬王寺として開基した。次第に寺運が頽廃する中、貞永元(1232)年に親鸞聖人が東国教化の帰途に立ち寄られ、人々を教化し念仏の道場となった。その後、嘉禎元(1235)年に親鸞聖人の真弟・性信坊を初代住職に江戸浅草の高龍山報恩寺の末寺として高雲山報光寺と号し、現在に至る。現在の本堂・庫裡は、江戸末期の火災焼失後に建築したもので、本瓦葺き。 |
山門は明治9(1876)年、小牧市三ツ淵の正眼寺から買い受けた。寺宝として、親鸞聖人絵像・阿弥陀如来絵像・性信坊笈摺がある。 |
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